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            この写真は1420万画素CCDカメラによる撮影である。 
            撮影者はゲスト。撮影年は2009年10月である。 
             
             
            滑らかだがやや線が太い感じがする。 
            色の出方は正にポジの面目躍如たるところだろう。 
            このラクチンさはデジタルの長所となる。 
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            この写真は6x7判マミヤRZによる撮影である。 
            フイルムはコダックのエクター25、ネガカラーである。 
            撮影は10年以上前のものだ。 
            現像は自家現像である。 
            フイルムをデジタル化する上での劣化を考え多少のシャープネスを加えている。 
            色が薄いのはこのフイルムの手強さを現している。 
            線が細く感じられるのはフォーマットの違いだろう。 
            撮影の条件もカメラもレンズも全て違う訳だから、 
            現在でもそれなりに見れるのは驚きだ。 
            この時代にデジタルはまだ黎明だったから、 
            記録としての媒体としては全く不足はなかった。 
            これは紛れもない事実なのだ。 
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            この写真は同じくエクター25.。但し35mmフイルムである。 
            現像は同様、自家現像である。 
            この写真も10年以上前のものである。 
            レタッチの劣化とフイルムの性質上多少シャープネスを掛けている。 
            やはり色の出方は中々手強い。 
            しかし、35mmフイルムのネガからーであるを考えると 
            それこそ手強いシャープさだろう。 
            この力強さと粘りは他のネガフイルムにはないものだ。 
             
            あらゆる点で使い難いフイルムであったのは間違いがない。 
            しかし、使い難いのと悪いのとは全く違う事も事実だ。 
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            フイルム時代は正に粒子との戦いであった。いかに粒子を目立たせなくするかが課題であり目的であった。 
            いざデジタルになった途端に粒子は消えて、いわゆる無粒子の世界がやってきたのだ。歓迎かと思うと実はそうでもない。 
            何かが足りないのだ。いやいや粒子ではない。 
             
            実は足りないのではなかった。多かったのだ。ここがとても大事なところだ。 
            本来消えていくべき情報が残りすぎるのだ。多くの写真家諸氏はこの点にまだ気付いてはいないだろう。 
            例えば、上等なコンデンサーマイクで取った音声とでも言おうか、人間の耳のラウドネス曲線とはそぐわない音は耳障りになるのだ。 
            写真でも同様な事が生じ始めている事に気が付いたことだろう。特性を追い求めるのは必ずしも正解ではないのだ。 
            人間の目は感知能力限界まで情報を察知し、蓄積している。 
            実はここの比較テストは完全ではない。デジタル化することによりフイルムの情報は格段に減少しかつ劣化している。 
            それを防ぐことは不可能でもあるし、第一無駄な作業にもなるだろう。 
             
            フイルムが駄目な点はそれらのハンデがあるからに他ならない。 
            補正は可能だが、誤魔化すのはもういい加減にしたいと言うのがデジタル人間の本音なのだ。 
            フイルムの持つ不思議な違いは、残念ながら今時のデジタルでは説明がつかない。 
            とは言うももの、デジタルの高画素化は「もっと見たい症候群」の治療には極めて有意義なものであり、 
            歓迎の極みと言えるだろう。 
             
            それより貴方、ポジフイルムだけがフイルムじゃありませんよ。ネガフイルムという手に負えないじゃじゃ馬を貴方、ほれ 
            見直して見たら如何でしょう。 
            いやいや、そうではなかった。 
            デジタルはフイルムを凌駕しているのだった。 
             
            ここで、フイルムの衰退について薀蓄。 
             
            フイルムの衰退は大きな間違いが引き起こしたものだろう。 
            それはデジタル化という大きな間違いだ。 
            現在ではアナログのプリンター機は生産されていないはずである。どんどんミニラボの機械もデジタル化されている。 
            思うに、デジタル化は10年遅かった。 
             
            フイルム、いや、写真というモノに対する考えが実に甘かったのだ。良質なプリントは人の手に委ねるしかなく、 
            そのコストははんぱない。 
            そうこうしている内にデジタル化、パソコン使用が便利とする構図が固まってしまったのだ。 
            つまりフイルムという個体で残るものを、迅速でかつ正確に再現できるシステム化を怠ったのである。 
            現在のカメラに備えられているような機能は、デジタル化されたラボシステムでは容易いはずだ。 
            後の祭りであろう。 
             
            実は、デジタルのメリットはすぐにその場で確認できるからだとされている。これは半分正解であり半分は間違いだ。 
            もとより確認が必要なのはプロか全くの素人がコミュニケーションの手段として確認しあう時にのみ必要なのだ。 
            つまり、写真家には必要がない。何故ならば撮れたと感じるのはシャッターを押した時だけなのだ。 
            あえて確認することはない。そこまで下手な人は今までフイルムで写真は撮っていない。論理なのだ。 
            デジタルの迅速性はパソコンと共に報道の現場を大きく変えた。 
            しかし、それを除けばそれほど急ぐことも写真家には無縁なことも事実だろう。 
             
            フイルムも然り。微粒子化を急ぐあまり、現像システムが追いついていかなかった。 
            フイルムは何処で誰が何時使うか解らないのが普通だろう。 
            手間隙時間コストがかかれば趣味の世界になってしまう。 
            写真は生活には欠かせないもの。そうあった時、写真はデジタルを選択したと言って良い。 
            いやいや、フイルムを選択しなかったのではない。時間がそうさせたのだ。 
             
            人間は思考はデジタルだが行動はアナログ。コピー機の時代になって書類は余計に増えてしまったことだろう。 
            人間は形のないものを根本的に信用しないのである。 
            デジタル化されたデータの消失を恐れ、無駄と知りつつも幾重にもバックアップを取るのは性なのだ。 
             
            フイルムがどれだけ面倒かというと、あの面倒な写真屋さんにフイルムを持っていくこと。すぐにできないこと。 
            そして必ずお金が掛かること。そして何より思い通りに仕上がらない事だろう。 
            デジタル化でそれらが不要になって良かった良かった、なんて実は誰も思ってはいない。 
             
            多くのシェアを占めるコンパクトデジタルカメラ。これらのプリントはまず自宅ではしない。 
            やはりプリントに出すのだ。そうでなければ量販店や街頭の、例のちっぽけなセルフプリンターでちまちま焼くのだ。 
            お金がかかっているのだ。おまけに焼き増しなんてしている。知ってたか。 
            パソコンで写真を取り込みプリンターで焼くのは、実にハードルが高い。写游人が言うのだよこれは本当だ。 
            プリントに出した場合はどんなに違っていてもそんなものかと思うのは真理だ。 
            ところがどっこい自分でプリントしたらもう駄目だろう。透過光と絵の具の違いを説明するのは不可能に近いだろう。 
            キャリブレーションはキャビアではないぞよ。 
            こんなことだから、皆さんデジタルに頭が痛いのです。 
             
            ここまでで言いたいことが何か解れば有難い。 
            そう、一番可愛そうなのは巷の写真家なのです。写真やさんでは高いし敷居も高い。まして、 
            いまさらパソコンはもっと敷居が高いのです。 
            デジタル人間である写游人ですら、写真を作品に昇華させるのは至難の技です。 
            もうほんとうに放り投げたくなるのです。デジタル導入に、写真家が二の足を踏んでた気持ちがよーく解るのです。 
             
            気楽にラクチンに手軽に素晴らしい写真が撮れると言うのは思うに妄想なのです。 
            いやいや、大抵は良いのです。大方まあ85%くらいは良いのですね。それで充分でもあります。 
            残りがイケマセン。残りが。 
            実はこの残りの15%に一縷の望みを託すのが写真家だったりするのでした。 
            押せば撮れる85%はどーでも良かったのです。 
            これも真理なのでした。 
             
             
             
             
            なるほどね。また例のごとく勝手な論理ですね。 
            またかい。あひゃひゃひゃ、退散するぞい。 
             
             
             
            つづくぞ。 
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