聴覚障がいによって失う物



聴覚障がいによって失う物は聴力だけでしょうか。

良く言われることに、コミュニケーションが失われるという事です。卓球の様に会話は行ったり来たり、ピンポン玉の様に弾んでこそコミュニケーションは深まります。聞こえないことにより、意思の疎通が成り立たず途切れてしまうことは日常茶飯事と言えます。

社会であれば、築けるはずの信頼関係も構築できず出世の街道からは振り落とされてしまいます。ツーカーであってこそ信頼が築ける、面倒くさい者はやはり嫌われのです。話したことがちゃんと伝わっているかどうか一々確かめるのは、世の中の流れにはそぐわないのです。よって、差別のない差別を実際は受ける事になります。私は、障害者申請を勧められたことがありましたが、治療が確定しておらず却下。会社は身体障害者を雇用すると、いろんな面で恩恵があるのです。決して本人のためではありません。

聞こえないことは話しかける人は勿論ですが、本人が一番ストレスを感じます。普通の人なら一回言えば済むのにと思われても仕方がありません。
これが、在職中延々と続くのです。自分が逆の立場でも腹が立ちます。

つんぼと言うレッテルを貼られて生きるのです。このレッテルは生涯外れることはありません。
人と歩く時はは常に立つ位置を聞こえやすい耳の方にします。これは数十年も変わりませんし、これからも変わることはありません。
多数で椅子に座る場合は、座る位置に悩みます。右側は聞こえても、左側は話しかけられても全く聞こえないからです。
ですから、自然と多数の席・・・、つるんで昼食などはしなくなります。宴会も同様、意味なく出席を断ります。騒音で補聴器が役に立たない上に、
話しかけられても困るからです。いつも、ポツンと・・・、嫌ですね本当に。耳が悪いばっかりにどれだけ情けない思いをしたでしょうか。

聴覚障がいがあると仕事や学校の他に、趣味の制限があります。中途障がい者ならば音楽やオーディオを諦めなければならないこともあります。
先天的な障がい者ならば、最初から音楽やオーディオは存在しない趣味になってしまう事でしょう。考えてみてください、日常には音楽が満ち溢れています。この音楽は生活には欠かせないものとなっているのではありませんか。音楽によりどれだけ癒されてきたでしょう。どれだけ励まされてきたでしょう。
そんな感動を味わうことは、聴覚障がい者には出来ないのです。仕事や学校のストレスを発散させているのではありませんか。



聴覚障がいによって失う物は、もしかしたらコミュニケーションだけかも知れません。

でも、それが一番大切なものだったりするのです。


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