はじめに 難聴であるということ 1



 

<難聴者は苦労する>

ヘレンケラーは、聾者は耳が聞こえない以外は全く普通の人間であると言ったそうです。
その通りだと思いますが、社会は決して聾者に理解があると思ってはいけないでしょう。
難聴のお子さんを持つ親御さんは、このことをしっかりと認識して子供さんに接して欲しいと思います。小児にして難聴になった場合、大人になるまで、いや多分に生涯を終えるまで重い十字架を背負わなければならない。その現実を理解することが必要だと考えています。
耳が聞こえなければ「つんぼ」と呼ばれ馬鹿にされる、それは今も昔も変ることはありません。
10年ほど前のことでしょうか。
車を止めていて地図を見ていたら、道ばたで遊んでいた子供が右耳の補聴器を見つけ「あ、こいつ耳が悪いぞ!」と大声で叫びました。
驚きましたね。さすがにグサっと来ましたよ。

<難聴者と仕事>

会社では、ほとんどの人が聞こえない左の耳に向かって話しかけてきます。左は全く聴力がなく補聴器は付けていません、補聴器の付けていない耳が聞こえると思っているわけです。方向性は全くなく、ほぼ100%の確率で呼ばれたのと違う方向に顔を向けてしまいます。日常は、人の左に立つこと。椅子に座る場合は必ず左端を選びます。左から話しかけられても、まず聞こえないと思って間違いはありません。止むを得ない場合は補聴器のレベルを上げますが、上げれば上げるほどハウリングが起きて全く聞こえなくなってしまいます。このハウリングは困りもので、補聴器をはめている場合耳の中の圧力は変化しますから突然とハウリングが起きたりするのです。
ハウリングを注意されることもあります。出したくて出すわけではないだけに、苦痛以外の何物でもありません。
あと会話で困るのは地下鉄と宴会。まず会話は聞こえません。補聴器のリミッターが掛かってしまい音は潰れて割れて騒音に埋もれてしまいます。
補聴器は複数の音を識別できません。つまり、大きい音が常に優先されます。補聴器にとって電話はもっとも苦手なもののひとつです。マイクが耳穴と違う場所にありますので、ピーピーとハウリングが起きてしまいます。誰かが話しをしているともうお手上げです、大きい声がお構いなしに入ってきて電話の声は聞こえなくなってしまいます。
シュレッダーの音も補聴器をしている者には大変に苦痛です。
あと最も困るのは通常の会話です。比較的大きな声の人は良いのですが、声の小さい人には本当に困ってしまいます。まず2割か3割しか理解はできません。それで何度も聞き返しますが、声の大きさが変るわけではありませんからやはり全てを聞き理解することはできません。

<諦めなければならないこと>

耳が聞こえないことや不自由なことは、残念ながら健常者には理解ができない。これはどうしようもない事実です。
ただ、目の不自由な人に比べて自分はなんて幸せ者なんだろうと思うことも事実です。
補聴器を外すと、聞こえるのは耳鳴りばかり。どんなに大きな音も聞こえることはありません。

今から十数年前、車を運転していて突如とウインカーのカチカチ音が聞こえなくなったことに気付きました。
そこそこ聞こえていた右耳が聞こえなくなくなってきたのです。それ以後、まさに秋の夕日のつるべ落としのごとく右耳は劣化していきました。
30代に右耳が急に聞こえなくなり某大学病院を受診したことがあります。そのときに、耳を診た教授が「左はもう駄目だけど右はなんとか50までもたすんだね」と言った言葉が思い出されました。
それまではオーディオが趣味であり、寝ても覚めてもスピーカーをいじり音楽を聴く日々であったのです。
あきらめました。
今はほとんど音楽を聞くことはありません。補聴器では音が割れて聞くに堪えないのです。

視力を失った人は、時々目が見えた頃の夢を見るという。だめだとわかっていても、願いが消えることはないのだと思います。
諦めたのは現実であっても、見えた頃や聞こえた頃の思い出は決して消えることはないのです。

<障害が見えない>

難聴による障害は目には見えません。
補聴器をしていれば難聴かな、とはわかるでしょうが、それでも障害の程度は全く外見からは知ることはできません。
高度難聴でも、補聴器をしていると人の声や騒音はわかります。でも、それだけなんです。それは健常な時に比べて、あまりにも少ない範囲しか聞こえていないのです。
見た目は健常者と判別が付きにくいだけに、外では常に危険と隣り合わせと言っても良いでしょう。片方の耳が悪い場合、補聴器を付けていても方向性は全くありませんから後ろからの自転車や車にはほとんど無防備だと言っても過言ではありません。
また、補聴器を付けているからと言って音が健常者のように正しく聞こえている訳ではありません。難聴には伝音性と感音性そしてその複合型の難聴があり、音の聞こえる範囲はまったく異なります。つまり、補聴器がどれだけ役に立っているのかも実際は判断できないのです。

難聴であるということは、本人に取って大変な負担であるということを知っていただければ幸いです。


2010年記


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